流川通り1丁目の歴史

大正初期

大正初めの頃は「港町通り」とよばれ流川通りの整備が行われる前で道路は狭く、北側(山に向かって右側)に曲がっている。
北側(右側)の3階建ての建物が長崎屋旅館です。(国道10号線から流川通りに入った最初の角の場所)

両側に並ぶ2,3階建ての建物は明治30年代に創立した旅館が多い。

 

大正後期~昭和初期

流川通りは整備され、一直線の大通りとなった。

北側(右側)流川通り入り口には、イヨヤ旅館(現、明治安田生命ビル)でこの一階に亀の井大型遊覧自動車のりばがあった。
バス、自転車、車も見るようになった。

 

昭和初期

(正面山にケーブルカーのレールが見えるので昭和4年以降)

北側には3階建ての長崎屋旅館の一階角に「八幡浜・宇和島行」と看板があり、ここに商船会社が入っていた。

地獄めぐりのバス待合所がイヨヤ旅館から移転している。
その奥に竹瓦マーケットの看板、4階建ての萬屋旅館も見える。

南側には3階建ての長崎屋旅館・ひさご旅館・竹屋旅館が見える。
3・4階建ての旅館、商店も増え、車も人も増えてきた。

 

昭和20年代前半(戦後まもない頃)

北側竹瓦マーケット(竹瓦小路)入口付近
(電柱の後ろに竹瓦マーケットという大きな看板が見える)

南側ひさご旅館・竹屋旅館が見える(現塩月堂前あたり)

自転車に乗る人が増えてきている。

 
 

流川通り2丁目の歴史

大正末期

北側に若松屋(堀がある家)がある。(現ソルパセオ銀座入り口付近)

南側にかねますや絞店伊予銀行(現菊家)ビリケン(食堂・ホテル)(現マルショク駐車場一部)

名残橋があった場所(伊予銀行から菊家側に変わった)

 

昭和10年頃

北側 銀座街(ソルパセオ銀座)

南側 アーチ型ネオン中浜筋、銀天街、仁寿堂薬局・洋品店、松超写真館が見られる。

流川通りは大正6年に流川を修復し案渠となり、東面を貫く大通りとなったため、両側が急速に発展した。

 

流川通り3丁目の歴史

大正初期(2丁目・3丁目付近)

大正初めの頃はまだ流川通りが整備される前で、道は狭く、画面右では南側(左側)に曲がっている。

奥には橋の欄干が見え、柳の木の下には実際に川が流れていた。

流川通りより南は夜の町として栄え、この川端で男女が別れを惜しんだことから「名残り橋」と呼ばれた。

 

大正10年前後

南側
名産店、書店、時計店などの商店、旅館が軒を並べ賑やかになった。

建物も特徴のあるものも多く見られる。

 

大正終~昭和初期 (流川通り3丁目 中心)

南側
ビリケン・勉強部屋分店(土産品)、書店、石井時計店、タバコ屋など軒を並べている。

北側
別府志ぼり店、湯の花製造、別府鉱水販売元、縫針店など軒を並べている。
昭和初期の別府中心街として繁栄していく。

 

昭和20年代

南側
ヨシムラ薬品、勉強屋(土産品)の看板が見える。

北側
エッチ美容室、ブランタン(喫茶店)、瀬戸電気と軒を並べる。

バスも通り、行き交う人も多く賑わっている。
人々もファションや娯楽にも興味を持つようになってきた。

 

流川通り4丁目の歴史

大正末期~昭和初期 (流川通り3丁目・4丁目)

(この写真は山側から海側に向かっているもの)

南側
このころは片桐時計店が山手にあった。
この後2丁目に移転。
あさくの絞店も3丁目の南角から移転。

北側
柚森の上にはまだ松下金物店はない、その上は別府高麗焼とあるので、ここにせともの屋もあった。

バスも通り、行き交う人も多く賑わっている。
人々もファションや娯楽にも興味を持つようになってきた。

 

昭和20年代

南側
こギフトショップ・藤岡ゴム店(かばん)の看板が見える。

北側
用品雑貨・レストラン”スワン”(現いろは商事)弥生町をはさんで柚子森(ゆずねり)・松下金物店と軒を連ねている。

バス、輪タク、自転車が行き交うようになり、町に活気があふれている。
町に英語の文字も増えてきた。

 

昭和20年~30年代 (流川通り4丁目 山~海)

南側
西尾百貨店
日用商会(2階がダンスホール)があった。

北側
角柚森(ゆずねり)(現コインランドリー)
松下金物店
中条薬局(現グロリア付近)

若い人も多く町を歩き、賑わいを増し、オープンカー、輪タクなども目に入る。
雛人形と月賦販売を宣伝するようになり、経済面で発展する時代になった。