【監修・資料提供】
別府の歴史研究 小野弘 様
大分県別府市流川通りは、戦前から沢山の文化人が訪れ、
その作品に影響を与え、場所自体もその作品に度々登場します。
これらの文学作品を私達地元の人は流川文学とよんでいます。
今回、この流川文学についてご紹介いたします。
大分県別府市流川通りは、
戦前から沢山の文化人が訪れ、
その作品に影響を与え、
場所自体もその作品に度々登場します。
これらの文学作品を私達地元の人は
流川文学とよんでいます。
今回、この流川文学について
ご紹介いたします。
『雪の夜』(昭和16年)、『湯の町』(昭和21年)、『怖るべき女』(同)の三作はいずれも流川通りが舞台となっていて、夜も商店の灯りが明るく輝く様子を、大阪の道頓堀に見立てている。戦前の流川通りのシンボル的存在であった、四階建て(展望台を含めて)の洋館風レストラン「ビリケン」の三階にあったダンスホールがどの作品にも印象的に描かれている。
たとえば『湯の町』では、次のように戦前の流川通りが描かれている。
――流川通を真っ直ぐ海岸の方へ、自動車は真昼のように明るい街の灯の中を走って行った。/ 流川通は別府温泉場の道頓堀だ。カフェ、喫茶店、別府絞り・竹細工などの土産物屋、旅館、レストラントが雑然と軒をならべ、そしてレストラントの三階にはダンスホールがあった。妖しく組み合った姿が窓に影を落して蠢いていた。――
なお、織田作之助の出世作『夫婦善哉』(昭和15年)は、駆け落ちした大阪北新地の芸者蝶子と梅田新道の化粧品問屋の息子柳吉の物語。昭和30年には森繁久弥と淡島千景が出演して映画化されヒットした。
実は小説のモデルは織田の姉夫婦で、昭和9年に大阪から別府へ移住して理容器具の店や料理屋を営んだ。その別府を舞台にした『夫婦善哉』続編の原稿が近年になって発見され、出版もされている。
自伝的小説『西の旅』(昭和16年)は、徳田秋声が満三十歳の明治35年、湯治のため別府を訪れた経験を元にしている。別府で劇場を経営する兄嫁のおば(モデルは松原公園にあった松涛館経営者の木元トミ)を頼って来別し、そのおばの娘(夫の先妻の娘)の一人、江上きぬが女将をつとめる流川通りの料亭「まるか」にしばらく滞在させてもらう。 まるかは現在の流川通り三丁目のゑり章、和(なごみ)、山正あたりまでの大きな料亭だった。その様子は次のように描かれている。
――今一番目の娘のやってゐる、町の殷賑地帯にあたる流川の花柳界にある其の家へ来てみると、そこは土地一番の大きな構へで、――
小説にはほかに、松原公園の賑わいや松涛館の芝居のこと、診察を受けた当時大分県下一番の個人病院だった朝見病院の創業者鳥潟恒吉が日本人離れした風貌だったことなども記されている。
『雲の墓標』(昭和31年)は、宇佐海軍航空隊で特攻のため訓練に励む海軍予備学生の、日記の体裁をとった小説。本の帯には「大空に散った特攻学徒兵の生の愛着と死の恐怖にもだえる姿…胸せまる戦争の記録!」とある。 訓練のあいまの外出日には別府を訪れており、流川通りの千疋屋や日名子旅館、亀川のかじや旅館などが何度か登場する。現在の塩月堂の少し海側にあったフルーツパーラーの千疋屋は、次のように描かれている。
――流川通りを、ひとり山の方まであるいた。別府の沖に航空母艦が一隻入ってゐるのが見えた。それからもどって、このまへも来た千疋屋に、「只今海軍さんの時間です」といふ札が出てゐるので、入って柿と無花果とを食べ、魚のフライと豚肉の煮つけで晝飯を食はうとしてゐると、となりの席でビールを飲んでゐた大尉が自分にはなしかけて来た。――
『別府で』(大正2年『仆れるまで』所収)=国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている=。流川通りは大正時代に現在のような大通りに整備されるが、それ以前は次のような雰囲気だった。
――爪先さがりになった本通りを海岸の方へ二三町歩いて足を棒のやうにして返って来るのが彼の日課であった。不揃ひな歯並のやうな小ぽけな店屋が両側にせせこましく建ち詰まって、低い軒の屋根瓦の合せ目には白く漆喰がしてあるのが、如何にも風の強い土地だといふ事を旅人に知らせるのであった。――
通りの南側にあった流川(名残川)はすでに暗渠になっていたが、現在の菊家あたりにあった名残橋からは当時も斜めに川が流れ下っていた。
――田の湯から来てる暗渠が楠町の入口で口を開いて、濛々と狭霧の立つ中に、木の柱や鉄棒に支へられた懸造りの古普請が、両側に肱つき合はしたやうに建ってゐる。そこの名残橋を越えると遊郭になってゐて、なつかしい三味線の音色が旅人の腸をちぎれよとばかり川へ流れて入る。その川は流川といった。――
『海燕(うみつばめ)』は、昭和7年に人気を博した新聞連載小説。ギャンブルにうつつを抜かし、出会った頃の文学研究への情熱をすっかり失ってしまっている夫に愛想を尽かした妻の三千代は別居。満州へ仕事に行く父親に同行するが、途中の別府に滞在して父親の帰りを待つ事になる。日名子旅館のほか、外出した町の様子が少しだが描かれている。
――ザボンの砂糖漬を売ってゐる店が目についた。南国らしい感じがした。――
――流川通りの本屋へも、よく肩の凝らないやうなのを選んで雑誌を買ひに行った。――
1958(昭和33)年、新婚旅行で杉乃井館に宿泊。地獄めぐりを行なう。
「続千羽鶴」。1952(昭和27)年10月来別。
大阪毎日新聞の記者。作家。 別府宣伝のため1907(明治40)年10月に招かれる。 「別府温泉繁盛記」を明治41年6月に大阪枚市新聞に掲載。これにより別府に観光客が沢山来るようになったと言われている。当時の別府の様子がよくわかり、現存する地名・建物も多数登場するので興味深く読むことが出来る。ぜひ別府の人にも読んでもらいたい
1921(大正10)年から6年間、駐日大使を務めたフランスの外交官。詩人。 1924(大正13)年と1926(大正15)年に別府を訪問。 詩碑は1968(昭和43)年9月に建てられ、現在は北浜公園の中にある。
1918(大正7)年来別。長崎旅行の途中、愛人・笠井彦乃と別府に立ち寄ったが、彦乃は肺結核が悪化。中田医院(現在の楠銀天街下の旭通り沿いにあった)に入院中の彦乃を約1カ月見舞った。
油屋熊八の招きに応じて、1931(昭和6)年10月、与謝野寛・晶子夫妻が来別し、亀の井ホテルに宿泊。
1921(大正10)年3月、ドイツに留学するので、長崎から東京に帰る途中に、東大医学部の同窓であるの鳥潟豊博士を尋ねるため、来別。
1920(大正9)年、鉄輪の富士屋旅館に宿泊。日本八景に選ばれた別府温泉を高浜虚子が執筆。 「日本八景」(1927年・昭和2年)7月6日発表。(東京日日新聞と大阪毎日新聞の共同企画・鉄道省後援)。
大正時代から昭和初期にかけての歌人。華族の出身で大正天皇の姪にあたる。 別府流川通り12丁目の銅御殿に住んでいた。今も銅御殿の跡地に歌碑が建っている
アララギ派の歌人。別府南町の生まれ。別府尋常高等小学校、大分高等女学校卒業。実家である小松屋河村家は別府の名家。1928(昭和3)年に浅利良道などと共に「大分歌人」を創刊した。小松屋は野口雨情・与謝野晶子なども訪れ、文化サロンとして機能した。
アララギ派の歌人で大分県短歌界の重鎮。1934(昭和9)年、大分合同新聞(当時は大分新聞)の歌壇選者となる。生誕地は現在の西法寺通りにある、鉄輪に旧居跡がある。
「別府夜話」1925(大正14)年発行を執筆。 作品全体を通じて別府が書かれている。
【監修・資料提供】
別府の歴史研究 小野弘 様